京大サイクロトロンの物語
~~博物館地下に眠るポール・チップは何を語るか~~
2006年3月2日 中尾麻伊香
京都大学総合博物館の地下収蔵庫の一角に、直径1メートル,厚さ15センチメートルほどの円盤が置かれている。ポール・チップと呼ばれるこの円盤は、サイクロトロンという装置の一部である。サイクロトロンの本体は、1945年11月、戦後占領軍によって琵琶湖に廃棄された。廃棄を免れたポール・チップだけが、誰が、いつ運んできたのかは分からないが、博物館の収蔵庫に眠っているのである。一体どうして、サイクロトロンは廃棄され、ポール・チップは日の目を見ることも無く地下でひっそりと眠り続けているのだろうか。
・サイクロトロン
サイクロトロンは、加速器の一種である。物理学が大きな発展を遂げた20世紀、その発展を支えた実験装置が加速器である。加速器は、磁場や磁場の中の負電化を用いて、電子や陽子などの荷電粒子を加速するというものだ。この装置によって、人工的に新しい粒子をつくることが可能となり、科学者たちは原子よりも小さな世界を調べることができるようになった。
加速器の誕生は1930年代初頭に遡る。イギリスのキュヴェンディッシュ研究所では、コッククロフトとウォルトンが高電圧加速器を完成させ、アメリカのカリフォルニア大学では、のローレンスとリヴィングストンがサイクロトロンを完成させた。サイクロトロンは、円運動をしている荷電粒子に磁場をかけることで、高エネルギーの粒子をつくりだすもので、直線型加速器と比べて、少ないスペースで加速することができた。サイクロトロンはその後、素粒子、原子核、医療、工業、など物理学だけでない多様な分野における研究に、用いられることになる。
・戦時中の核物理学研究とサイクロトロン
加速器を、アジアでいち早く完成させたのが、台北帝国大学の荒勝文策らの研究グループである。1890年生まれの荒勝文策は、京都大学を1918年に卒業し、その後、ベルリン大学、ケンブリッジ大学、キャベンディッシュ大学で学んだ。日本を代表する核物理学者である。台北帝国大学で1934年、加速器を用いた原子核壊変実験に成功した荒勝らは、1939年に京都帝国大学に移り、そこでサイクロトロンの建設に取り掛かった。
その頃、理化学研究所の仁科研究室、大阪帝国大学の菊池研究室でもそれぞれ、サイクロトロンの建設が進められていた。1937年にサイクロトロンを完成させた理化学研究所の仁科芳雄は、サイクロトロンの開発者ローレンスに助言を受けながら、さらに大きなサイクロトロンの建設に取り掛かっていた。
しかし1941年、研究者同士の交流とはうらはらに、日本とアメリカの間には太平洋戦争が勃発する。日本には、アメリカなどから核物理の研究論文が入ってこなくなった。核物理分野の研究論文は、核エネルギーを用いた爆弾の製造に手がかりを与える可能性があった。そんな中、ローレンスはアメリカの原爆研究に、仁科と荒勝は日本の原爆研究に、それぞれ協力することになるのである。国のためにならない研究を続けることが困難になっていたその頃、多くの者が戦争の前線に徴兵されたように、科学者もまた、兵器開発に動員されたのだ。
原爆を作る可能性が理論的に示された直後に、第二次世界大戦が重なったことは、不幸であった。ナチスドイツによる原爆製造を危惧した一部の科学者の働きかけにより、アメリカではマンハッタン計画がはじまった。ナチスと連合国のどちらが先に原爆を製造するかは、戦局を左右する死活問題であった。日本も例外ではなかった。日本における原子核原爆研究の第一人者であった仁科、荒勝はそれぞれ陸軍、海軍より原爆開発を依頼されたが、資材不足などから結局完成に至ることはなかった。一方アメリカは、莫大な資金力と組織力をもって1945年、ニューメキシコの砂漠で爆発実験に成功した。そして原爆は、兵器として使用されたのだ。仁科と荒勝の調査チームは、広島への原爆投下の数日後に現地入りし、調査を行った。そのデータはそこれが間違いなく原爆であるることを証明することとなった。
日本の核物理学研究は、戦争が終わってからも、自由にできたわけではなかった。GHQは、日本国内で原爆製造ができないよう、監視の目を光らせていた。荒勝研究室では、サイクロトロンのメイン部分である電磁石(マグネット)を完成させていたが、1945年11月24日、日本を占領していたGHQによって撤去されてしまったのだ。理研、阪大のサイクロトロンも同様の運命を辿った。理研サイクロトロンは東京湾へ、阪大サイクロトロンは大阪湾へ、京大サイクロトロンは琵琶湖へ、それぞれ解体され沈められたのである。サイクロトロンの破壊は、核物理学研究の埋葬に等しいものであった。
第二
・サイクロトロンの破壊の後
GHQによるサイクロトロンの破壊は、世界中の科学者からの手厳しい非難を浴びた。科学を知らない軍部が、純粋な科学を戦争の道具と混同した、人類の知的財産を奪ったのだと。仁科はアメリカの学会誌に痛恨の想いを投稿し、科学者たちの同情をかった。
サイクロトロンにとって不幸だったのは、サイクロトロンが、素人には判断つけ難い科学技術であったということだ。科学、とくに物理学は目に見えない世界を探求するものである。しかしその探求は、時に思わぬ方向に進んでしまうこともある。研究結果が、何かしらの形で社会に反映されるのだとしたら、純粋科学だからといって説明責任を逃れることは難しい。しかし、それがあまりにも複雑で、わかりにくいものだったとしたら…。そんな時、予防原則だとして探求を阻止してしまうのは正しいことなのか否か。答えは簡単には見出せそうにない。
いずれにせよ、原爆の製造に繋がる危険性があると判断されたサイクロトロンは破壊された。その後軍部は、サイクロトロンの破壊が誤りであったという声明を出すが、サイクロトロンは原子核研究に必要不可欠な装置であり、原爆開発に繋がるかもしれないという潜在的な脅威があったことは、事実だろう。危険な芽は摘み取っておくにこしたことはないのである。
サイクロトロンの破壊は、戦後の原子核研究に対する、占領軍の意向を象徴する出来事であった。以後数年間、
日本における原子核研究は禁止されたのだった。この原子核物理学の暗黒時代であった、一方では、かつて戦争の敵国であったアメリカなどから最新の研究論文が大量に流入してきた。情報が手に入れられても実験ができないという歯痒い状況に光明が差したのは1951年のことである。サイクロトロンの開発者であるローレンスが来日し、占領軍からサイクロトロン再建の許可を取り付けたのだ。
京都大学では、荒勝研究室を引き継いでいた木村毅一を中心としてに京都市から借り受けた旧蹴上発電所のレンガ造りの建物でサイクロトロンの再建がはじめられた。再建は京都市から借り受けた旧蹴上発電所のレンガ造りの建物で行われ、建物のすぐ横には琵琶湖疏水が流れていた。
琵琶湖からの水を引くことは京都にとっての悲願であり、琵琶湖疎水は大正期に行われた京都三大事業の一つであり、とされていた。琵琶湖からの水を引くことは京都にとっての悲願であった1954年10月19日の朝日新聞の誌面では「斜陽都市に金色の光-原子時代に脈打つ水力発電の魂」という見出しをつけ、サイクロトロンの建設をかつての大事業になぞらえて紹介している。琵琶湖疎水は、蹴上研究所の横を通る琵琶湖疎水は、湖の底に眠る初代サイクロトロンの遺志を運んできたかのようである。
そしてついに1955年12月24日、サイクロトロンの完成が発表された。初代サイクロトロンが破壊されてから丁度ちょうど10年と1ヶ月後のことであった。
今日、新しい装置の開発・導入に伴い、サイクロトロンはもはや科学技術の先端ではなくなった。しかしその功績が称えられ、京都大学科学研究所の入り口前には、サイクロトロンの電磁石部分が「原子核科学の魁」と刻まれた石碑とともに展示されている。(写真)
・行き場のないポール・チップ
一方、初代サイクロトロンは忘れ去られてしまったようである。サイクロトロンが廃棄された時に、本体と離れたところに置かれていたポール・チップは天涯孤独の身となった。惨禍を免れたポポール・チップは京都大学付属博物館に安住の床を得たが、その詳しい経緯は謎に包まれている。博物館ではポール・チップの処遇に困り、地下収蔵室で眠らせている。京大博物館の大野照文教授は、展示する文脈と背景が見つからないと語る。京大博物館では戦後60年以上経過した今日も、ポール・チップ、そしてサイクロトロン、ひいては大学における原子核研究の意味づけをできないでいる。ポール・チップはどう展示されることができるのだろうか。
戦後とくに、科学技術の持つ負の面が明らかになり、科学者の社会的責任や技術者の倫理といったものが問われてきた。そして今や、生物の核(gene)まで、議論は尽きることはない。科学者・技術者だけに、その責任を問うことができるだろうか。核兵器が戦争に必要とされたように、社会の要請に伴って科学技術は生まれるものである。
歴史は、どの方向から光りをあてるかによって、まったく異なった様相を見せる。過去を語るという行為は、語る人の立場を表明するものでもある。私たちは、サイクロトロンをどう語ることができるのか。葬られたままのサイクロトロンは、ただの“遺物”ではない。
写真:塩瀬さん撮影